ども、こんにちは。高インボムです。
そんなこんなで長年アドラー心理学にハマり続けていて、その理論や技法には何度も助けられ、未だに時間を見つけてはちょこまかと学ぶ日々です。
で、アドラー心理学の話題になると必ずと言っていいほど出てくるキーワード、『課題の分離』。
現代アドラー心理学を学ぶ上での重要な概念/技法の一つですが、特にSNSなどで見られるアドラー関連の話題では『課題の分離』だけが一人歩きをして、何なら『アドラー心理学=課題の分離』のようなイメージで語られることもあるようで、しばしば誤解されている気もします。
僕自身もまだまだ勉強中の身ではありますが、自分の学びの振り返りも兼ねて、今回はその辺りのことをまとめてみようと思います。
課題の分離、アドラーは言ってない
アドラー心理学の話になると必ずと言っていいほど出てくる定番のキーワード、『課題の分離』。
現代のアドラー心理学を学ぶ上で重要な要素の一つだと既に述べましたが、実はこれ、そもそもアドラー本人が提唱したものではないんですね。
実際に、アドラー自身の著書には『課題の分離』という言葉やそれに類する概念は全く出てきません。
この『課題の分離』という言葉自体は、日本におけるアドラー心理学の第一人者である野田俊作氏によるもので、その概念はルドルフ・ドライカース(アドラーの弟子でありアドラー心理学の体系化や普及に尽力した人物の一人)のメソッドに由来しているそうです。
野田氏は、日本にアドラー心理学を導入する際にドライカースの教育メソッドを参照したそうですが、欧米とは文化的な背景が違う日本でも通じるように翻訳した結果、『課題の分離』という言葉が生まれたとのこと。
『課題の分離』とは、「その問題は誰が応答するべきか」「その責任を受け持つのは誰なのか」といったことを明確にして個人が自立するためのものですが、
個人主義的な文化が定着していて普段から責任の所在を意識する思想が根付いていた欧米とは違い、集団主義的な文化の強い日本においてアドラー心理学を取り入れるには『課題の分離』という概念が新たに必要になったようです。
分けて終わりではない
実は、『課題の分離』には続きがあります。
それは『共同の課題』というものです。
アドラー心理学では、「人生の責任は自分自身にあり、直面する困難や課題には自分自身が対応する必要がある」といった考え方をしますが、
それと同時に「人は全ての困難や課題を一人で解決できるわけではないので、他者と協力し合う必要がある」といった考え方もします。
『課題の分離』をした後、個人で対処できる課題には個人で取り組むわけですが、それが難しい課題については、共同体のメンバーが部分的に受け持ったり援助をする等して『共同の課題』として取り組むことが大切、というわけです。
つまり、課題を分けたらそれで終わりではない、ということですね。
『課題の分離』は広く知られている一方で、『共同の課題』についてはあまり認知されていない印象ですが、特に育児や教育については『課題の分離』と『共同の課題』はセットとして捉えられています。
ちなみに専門家の方々は、『課題の分離』のことを「共同の課題をつくるための準備」といった説明をよくしています。
全ての土台、共同体感覚
アドラー心理学には、ベースとなるいくつかの理論と様々な技法がありますが、それらを支える土台として『共同体感覚』という概念があります。
『共同体感覚』とは何なのか。
アドラー自身は『共同体感覚』のことを『所属感』『信頼感』『貢献感』の三つの要素で説明しており、現在のアドラー心理学ではそこに『自己受容』を加えた四要素で説明される事が多いかと思います。
具体的には「私は共同体の一員であると実感していて(所属感)、共同体を信頼することができ(信頼感)、共同体の役に立つことができると思える(貢献感)こと。また、そのためには私が私を好きである必要があるよね(自己受容)」といったものです。
ちなみにこの『共同体感覚』、英語では『Social interest』と表記されていて、直訳すると「社会的な関心」となります。
アドラー心理学は、この『共同体感覚』が全ての土台となっていて、アドラー心理学における全ての理論や技法は『共同体感覚』と関係しています。
実際にアドラー自身も「個人心理学(アドラー心理学)を学ぶには、何よりもまずは『共同体感覚』を理解する必要がある」と述べています。
というわけで、もちろん『課題の分離』も『共同体感覚』に繋がっていきます。
健全に繋がるために自立する
再び『課題の分離』の話に戻りまして。
先程、『課題の分離』とは個人の自立のためにあると述べましたが、では、なぜ自立が必要なのか。
『共同体感覚』と繋げて考えていくと、それは他者と協力するためであり、社会と調和するためなんですね。
なので、『課題の分離』とは相手を突き離してバラバラになるためのものではなく、もちろん誰かを支配したり裁いたりするためのものでもなく、
お互いが健全に繋がり合うためにまずは一人一人が自立しよう、といったものなんですね。
つまり、『課題の分離』とは『共同体感覚』に向かうための手段の一つ、というわけです。
まとめ
というわけで、今回はアドラー心理学でよく見聞きする『課題の分離』と、それにまつわる誤解についてまとめてみました。
アドラー心理学の話になると『課題の分離』だけが取り上げられることが多いですが、それは『共同体感覚』という土台があって成り立っているもので、『課題の分離』だけが一人歩きしてしまうとアドラー心理学の本質とは真逆になってしまう、ということ。
実際にアドラー自身は行き過ぎた個人主義に警鐘を鳴らしていて、『共同体感覚』が欠如すると社会にうまく適応できずに人生が無益な方向に進んでしまうという説明とともに、社会と健全に繋がることや社会の一員として暮らすことの大切さを繰り返し説いています。
また、そういった意味から「個人心理学(アドラー心理学)は、ある意味で社会心理学であると言えるかもしれない」とも述べています。
ちなみに「個々が自立した上で全体の一部として生きる」という考えは、古代ギリシアのストア派哲学や江戸時代の日本で記された葉隠でも説かれていますし、昔の東洋思想も同じような事を言っている気がします。
場所や時代が違っても、人間の本質を突き詰めていくと最後は同じところに辿り着くのかもしれないな〜なんて思う今日この頃です。
アドラー心理学は、その理論や技法も含めるととてつもなく深くて幅広いので、興味がある方は是非とも専門書などを手に取ってもらえたらと思います。
また、アドラー自身は著書の中で『共同体感覚』と同じくらい『劣等感』についても語っていて、この辺りの話もとても面白いです。
機会があればまたブログに書いてみようかと思います。
では、本日はこれにて。
サラバオヤスミマタアシタ!
個人心理学が目指すのは、
社会に適応することだ。
by アルフレッド・アドラー
『The Science of Living(Alfred Adler)』より