『学ぶ』とか『教える』とかを考えてみた

ども、ご無沙汰しております。

天然パーマ100%の高インボムです。

 

ブログは相変わらずの不定期更新ですが、そんな中でもライヴやレコーディングなど、特に今月は急遽参加させてもらう事になったZILCONIAのライヴも結構な本数あったりして、かなり充実した日々を送っています。

 

で、その合間を縫ってという形ではあるけどドラムのレッスンというのもやっておりまして。

というか、場所や形式なんかは変われどレッスンの仕事自体は10年以上やっているので、気がつけばそこそこ長くなってきたなぁと。

 

そして、そこそこ長くなってきたのもあってか最近色々と思う事や考える事がありまして、

前にツイッターにもちょこっと書いたけど、自分のためにもそんな事をブログにまとめておこうと思い筆を取ってみました、ではなくパソコンを開いてみました。

 

 

モノを教えるという仕事にも色んなスタイルがあると思うけど、僕のレッスンは

『(基本的には)こちらからは何もしない』

というスタイルなんですね。

昔から割とそうやったと思うけど、近年増々その傾向になっています。

 

「何もしない」なんて言うと何か誤解されそうですが、車に例えると『運転手ではなくカーナビ』みたいなイメージでしょうか。

車に乗り込んで発進してもらえればこちらは色んな道を案内できるし、目的地を決めてもらえればその方向を指し示す事もできますよ、と。

ただ、ハンドルやペダルを操作するのは本人やし、もちろんエンジンをかけるかどうかも本人次第、と。

 

そういう感じのレッスンなので、与えられる事に慣れちゃってる人にはつまらないかもしれません。

でも反対に、

自分の意思が明確な人や自分で考え行動する人には、なかなか面白いヒントや選択肢を出せているんじゃないかとも思っています。

 

 

何事も自分でやってみるというのが大切と思っているので、そのためにはまずは自分の好きなようにやるというのが必要なんじゃないかなと。

色々と試してみたり時には失敗もしたりしてから初めて先生という立場の人(場合によっては人じゃない事も)の出番なのではないかと思うんですね。

 

そして、そういう状況になった時に先生という立場の人ができる事(やるべき事)というのは、

決まりきった一つの答を与える事じゃなくて、

色んなヒントや選択肢を提示する事なんじゃないかなと。

 

色んな可能性を見せるという事にもなるのかな。

 

なので、先生という立場の人が自分の知識や技を磨くのは(今はプレイヤーとしての話は置いておいて)、問題を代わりに解いてあげるためじゃなくて幅広い可能性を見せるため。

なんて事を思ったりする事がよくあります。

 

 

たしか去年やったかな?

とあるライヴ&講演(?)みたいなやつのトークコーナーで話をさせてもらった時にこんな例をあげたけど、

例えば3+7=□というような答が一つに決まった問題ではなく、

◯+△=10てな感じの問いを出してみるのが先生という立場の人の役割なんじゃないかと

てか、単純にその方がお互い面白いと思うんですよね〜

 

前者のような問題では誰がいつどう解いても答は一つですが、後者では自分が成長すればするほど色んな解が見出せるし、人と違っててもオーケーやったりしますから。

 

 

という感じでひたすらダラダラと長くなったけど、

ここんところレッスンをしてて色々と感じる事があったり、新たにスクールに来てくれる人もいるので、改めて自分のスタンスや想いを書いてみました。

 

 

トーマスエジソンは「失敗ではなく勉強したのだ」と言い、

アルフレッドアドラーは「人は失敗を通じてしか学ばない」と説きました。

 

失敗という経験が学びの元であり成長の種なのだ、みたいな意味で僕は解釈しているのですが、自分の事を振り返ってもやっぱりそうだなと言えます。

そして、『学ぶ』という事が試す事や失敗を繰り返して気付くという事やとしたら、それらを体験させる事が『教える』という事なのかなと。

 

 

ちなみに僕もつい最近、一つ新たな事を学びました。

 

木の床では何度落としても大丈夫だったタブレットも、タイル床では液晶が砕け散る

という事を。

 

 

「何かを学ぶためには自分で体験する以上にいい方法はない」

byアルバートアインシュタイン

 

 

では、本日はこれにて。

サラバオヤスミマタアシタ!