歌うたい祭りのベーシストであり、長年様々な現場でお世話になってきた先輩でもある仮谷克之さんが、今月初めに亡くなった。
歌うたい祭りのライングループで、仮谷さんが末期ガンであることを二井原さんから伝えられたのが、去年のクリスマスだった。
知らせを受けて軽くパニックになったまま、その日の夜に仮谷さんに電話をして色々と話をした。
途中で僕が取り乱していることを察知した仮谷さんは、「コウ君、落ち着いて。俺まだ死んでないから〜」と少し笑いながら冷静に話してくれた。
パニックになった後輩を末期ガンの先輩が電話越しに慰めるというなんとも情けない図になったが、振り返れば仮谷さんとの最初の出会いの時も僕はパニクっていた。
東京に出てきてすぐの2007年6月。
大阪時代にお世話になった先輩の繋がりでとあるセッションライヴに呼んでもらった。
そのセッションのベーシストが仮谷さんだった。
そして、その現場で僕はパニックになっていた。
詳細は割愛するが、ドラムはあるけどシンバルが一枚も無いという状況だったからだ。
上京直後の初現場で機材が足りずにあたふたする若手ドラマーを見て先輩ベーシストは「まあまあ、大丈夫だよ~」と笑いながらも優しく声をかけてくれた。
というか、メンバー全員が笑顔で優しく、その雰囲気に少しホッとした。
ちなみにライヴは、その時のバンマスが別のところからシンバルをお借りしてくださって無事に行なうことができた。
この時の出会いをきっかけに仮谷さんとの付き合いが始まり、田川さんをはじめ色んなミュージシャンと繋いでもらうようになった。
そしてこの「シンバルがなくてあたふたするエピソード」は長らく誰かに紹介してもらう際の良いネタになった。
仮谷さんはベーシストとしてだけではなく、レコーディングエンジニアとしての顔も持っていた。
僕が参加しているTHE★裏ワザというバンド(現在活動凍結中)でカバーアルバムを作ることになった時、ミックスのオファーや立ち合いをメンバーそれぞれで分担しようとなった。
それまでにエンジニアとしての仮谷さんとのレコーディングを何度か経験していてその音の素晴らしさを知っていたので、僕の担当する楽曲のミックスは仮谷さんにお願いした。
出来上がった音源はメチャメチャ良い音に仕上がっていて、評判は抜群だった。
ギターのイッシーは「この仮谷さんって人のミックス、スゴく好きです」と特に気に入っていて、僕は鼻が高かった。
仮谷さんとは色んな現場でリズム隊としてご一緒させてもらい、時には飲んで食ってアホな話もいっぱいして、山ほどお世話になった。
二人で毎年の東京公演(そしていくつかの地方公演)に参加させてもらっていたあんべさんから先日電話があった。
仮谷さんの訃報を聞いたようで、その事実の確認と、花を贈りたいから住所を教えてほしいとのことだった。
仮谷さんとの思い出は他にもいっぱいある。
最初に出会ってから17年。
歌うたい祭りでは僕が参加するようになって今年で10年目。
歌うたい祭りでは色んな場所に行って演奏することができた。
何年か前には仮谷さんの出身地である四国・高知県でもライヴをした。
ひろめ市場で食った鰹の藁焼きが美味かった。
大阪のライヴの時は、お好み焼きを食って帰るのが定番だった。
去年の歌うたい祭りの秋ツアー、大阪のライヴ会場の楽屋で何気なく撮った集合写真がとても素敵で、「次回のライヴからこの写真をフライヤーに使おう!」と盛り上がっていた。
仮谷さんと僕は年齢が14歳差で、アニキと呼ぶには少し離れているけどオヤジと呼ぶには少し若い、そんな絶妙な歳の差の先輩だった。
上京したばかりの頃に出会い、そこから長年に渡ってお世話になり、沢山の人と繋いでもらい、いっぱい学ばせてもらった。
感謝してもしきれない。
少し前に妻と晩飯を食べている時、仮谷さんの思い出話をしていると突然涙が出てきた。
そのまま年甲斐もなく号泣してしまった。
現実を直視できていなかった僕は、その時にようやく仮谷さんの死を受け入れたような気がする。
仮谷さん、お疲れ様でした。
本当にありがとうございました。